復活節第4主日説教(2017年5月7日)
羊はかなりの近眼で、目の前の牧草以外はほとんど見えていないそうです。温厚な性格の羊は、守ってくれる存在がなければ外敵に襲われてしまいます。目がほとんど見えないなら、音とにおい、触れた感触に頼るしかありません。
今日の福音書の直前のヨハネによる福音書9章には、生まれつきの目の見えなかった人がイエスによって目を開かれた物語が記されています。そのことを理解できないファリサイ派の人々に向かって、今日の福音書、「羊の門」の話をされました。
目の見えない羊は、羊飼いの声を聞き分けて付いていきます。聞き覚えのない声には決して付いていかず、むしろ逃げていくそうです。一方の羊飼いは、1匹1匹を見分けることができ、その性格も把握しています。また、たくさんいる羊たちの1匹1匹に名前を付けて、牧草を食べさせるために先頭に立って連れ出します。
目が見えているつもりでいるファリサイ派の人々、ほとんど目の見えない羊たち、どちらがイエスの声を聞き分けてついていったでしょうか?ファイリサイ派の人々の生きる根拠、人間を評価する基準は「いかに律法を守れるか」にありました。羊飼いであるイエスは一人一人の名前を呼び、『ありのままその人を愛され』ました。
イエスは自らの命をかけて、神さまを愛し、人を愛する生き方を示して下さいました。それが羊の門としてのイエスの姿です。それが十字架の死と復活の命です。イエスは命に至る門です。この羊の門を、私達は毎日出たり入ったりしながら生きています。時には入り口を間違えることや違う出口から出てしまうこともあるかも知れません。世の中にはいろんな誘惑や間違った声、情報が蔓延しています。正しい声を聴き取っていくには、様々な感覚を澄まして判断しなければなりません。
何よりも先ず、私達一人一人の名前を呼んで連れ出し、守って下さるイエスの声をしっかりと聞くことから始めたいと思います。そこから命の歩みが始まっていくのですから。