復活節第3主日礼拝説教(2017年4月30日)
「私たちの心を燃え立たせるもの」
「エマオ途上」・・・私の好きな聖書の情景です。教会の会館コモンルームのピアノの上に 掲示されている絵画です。私は「エマオ途上」で二人の弟子たちと復活された主イエス の出会いの物語の中に「私たちの日常の中にいます主イエス」を見るのです。 喪失の中にいた二人、エルサレムからエマオへの道60スタディオン(約11㌔)を歩いて家路をたどる弟子たちは喪失の中にいました。喪失といっても人それぞれあると思います。死別による悲しみ、寂しさ、ぽかんと心に穴があいてしまう状態・・・ 元気だった頃から比べてだんだんと歳を重ねていくことへの思い、あの元気だった人が 病気になったり、衰えていってしまったり、私たちは口にだしてはなかなか言わなくても そのような様々な思いが心に浮かぶことがあります。 ミヒャエル・エンデ作「果てしない物語」(ネバーエンディングストーリー)に出てくる最大の敵は「虚無」でした。人間から希望を奪ってしまう「虚無」「むなしさ」が世界を覆ってしまう、それを救うために立ち上がる主人公バステアン、そして実はその主人公は読み手である読者1人1人であるという事に気がつかされるのです。私も小学生の頃、読んだ本で映画も見ましたが衝撃を受けた物語でした。 「虚無」「喪失」は人間から気力や希望を奪ってしまいます。2人の弟子が復活の主と出会っても主だと気づけなかったのはまさに「喪失」が彼らを覆っていたからではないでしょうか。 先週の私の経験から思う事をお話しいたします。今年の信徒総会の時もお話しをし、また今日の週報にも書きましたが今年は祭壇に捧げるお花を育てる花壇を作りたいという思いがあります。桜の開花を待って先週、信徒の方と花壇作りのための第1歩として土作りをしました。草を抜いて耕して、土を入れて肥料を混ぜるという作業です。幼稚園のお庭が日当たりがいいのでお借りすることになっていますが、いざスコップをいれて見ると粘土質でこれがなかなかの重労働でした。そして土を頂きにいった先の土は軟らかくて手入れがされているのだなと感じました。お水をあげてもいい土は吸水が良い感じがしました。 ある方から聞いた話ですが砂漠の水分が枯渇した大地に水をまいても水はなかなか吸収されていかないそうです。やはり土を耕し柔らかくしてそこに水が吸収されていくのです。 この事はまさに私たちの心の状態だと思いました。からからに乾いてしまった心の大地にいきなり水をまいても吸収していかないのです。どんなにいい言葉、美しい言葉でも無理です。やはり心が耕され、回復して水がしみこんでいくのです。 「喪失」や「虚無」はまさに心の大地がからからに乾いてしまっている状態だと思います。 だから2人の弟子は復活の主と出会っても分からなかったのではないでしょうか。 そこでイエスはこれまでの話を話し始め、そして一緒に泊まった宿でパンを取り、賛美の祈りを唱えて、パンを裂いてお渡しになられました(聖餐式) すると、2人の目が開けたのです。つまり、からからの心に水が入っていったのです。
主イエスは私が与える水は永遠に乾くことのないものであるとおっしゃっています。 2人の目が開いたときには主の姿を2人は見ることが出来ませんでした。しかし、2人はもう大丈夫なのです。彼らを覆っていた「喪失」は消え、新しい生きる希望が与えられました。 2人は次のように語っています。「私たちの心は燃えていたではないか」 聖餐式は「聖書の言葉(み言葉)」と「聖餐」の2本の柱が中心です。 毎週の礼拝によって私たちの心が喪失や虚無に支配されないように、燃え立たせてくださるように主は養ってくださってるのです。