復活前主日礼拝説教(2017年4月9日)

棕櫚の主日を迎えました。いよいよ受難週(聖週)を私たちは迎えました。
さて、復活前主日は2つの主題があります。一つは、棕櫚の日曜日であるということ、これは主イエス様のエルサレム入城を棕櫚の葉を振って人々がお迎えした事、そしてもう一つは今日の長い福音朗読によって示された主の受難を覚える事です。ここにおいて、人々は主を拒絶しています。つまり、熱烈な大歓迎をした人々が、何と数ヵ月後には「イエスを十字架につけて殺してしまえ」と叫んだのです。
この変わりようは一体何なのでしょうか。ユダヤの人々は救い主が顕れるのを待っていました。かつてのダビデ王のように強く、雄雄しい王の到来を待っていたのでしょう。ですから、イエスがエルサレムにやってきたときは本当に救い主が来られたと思い、大歓迎をしたわけです。しかし、イエス様は馬ではなく、弱くて小さいろばに乗って来られたのです。人々は次第に主イエスが自分たちが期待していたような救い主ではないと思ってきました。私たちの世界もこのようなことが今たくさんあると思います。最初は大きな期待と信頼を寄せていたけれども、次第に自分が当初思い描いていた事とかけ離れていることに気づくと、だんだんと最初抱いていた気持ちが薄れていき、そしてそれがいつしか失望へ、そして憎しみ、最悪の場合には殺意へと変わっていってしまうのです。
本当に人間の心理は恐ろしいと思います。愛が憎しみへと変わってしまうのです。私たちはだからこそ鍛錬が必要なのだと思います。主イエス様は私たちにたくさんの事を教えてくださいましたが、その教えの中でやはり、私がこの時に大事にしたいことは、「キリストの従順」「キリストの謙虚さ」であります。フィリピの信徒への手紙2:6以下に「キリスト賛歌」というのがあります。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
まさにこれこそが主の生き方なのであります。この主の従順な生き方を私たちは今日今一度心に覚えたいと思います。
お配りした棕櫚の十字架は私たちがイエス・キリストを自分の中に受け入れたという証です。キリストを受け入れたからには、キリストに学ばなければならないと思います。「謙虚さ」「従順さ」はいつまでも忘れてはならないと思います。
棕櫚の主日は人間の弱さ、そして主の従順な姿がはっきりと示されている日だと思います。どうぞ、イースターを迎えるまでの間、今一度自分自身のどうしようもない弱さを見つめ直しながら、今日から始まる聖週を一日一日大切に過ごして参りたいと思います。