復活日説教(2017年4月16日)
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。(マタイによる福音書28:9)
イースターおめでとうございます。幼稚園の庭の桜の花も開花しました。
先月3月に日本と韓国の聖公会の合同会議が大阪の城南キリスト教会で行われ、私は管区の青年委員会代表として参加してきました。青年委員会では特に毎年日韓で青年平和セミナーを行っており、今年は日本側が担当で8月に広島で開催が予定されています。
私が広島でのセミナーの概要について説明をした後に韓国のスタッフの方から質問がありました。なぜ広島なのかを説明しないと韓国の若い人はピンとこないと思うということでした。8月6日、8月9日という日は韓国の人にとっては特別な思いのある日ではないのです。私はハットしました。3月11日といえば私たちは東日本大震災が発生した日とすぐに思います。それでは皆さん、本日4月16日は過去に何が起きたか覚えていますでしょうか。一つは昨年の熊本自身の本震のあった日です。そしてもう一つはこれは日韓会議の時に教えて頂き私も思い出したのですが、3年前の今日、韓国のセウォール号が沈没し高校生が犠牲となった日です。恥ずかしながら私はその事を忘れていました。自分たちにとって身近な日常であればその日の事は忘れないと思いますが、私たちはいかに多くの事を忘れているのでしょうか。忘れなければ生きていけないとおっしゃる方もいらっしゃいますが。
さて、主イエス様の復活の物語は喜びの再会から始まりません。始まりは「空っぽのお墓」、そして女性たちの「恐れおののき」、つまり虚無と恐れです。安息日明けに主のご遺体が安置されている墓に行ったマリアたちの前に現れたのは天使たちでした。天使は主が復活されて、ここの墓にはすでにいないことを彼女たちに告げます。その言葉を聞いたマリアたちは恐れながらも復活の知らせを弟子たちに告げに向かいます。その途中でイエス様と出会います。そして、その第1声は「おはよう」でした。ごく当たり前の日常のあいさつです。十字架の場面は激しい描写です。それに対して復活の瞬間を見たものは誰もいません。聖書は恐れの中にいるマリアや弟子たちのもとへ真っ先に向かう主の姿を描いています。私たちが生きていくために必要なのは「日常」です。日常が失われることほどつらいことはありません。復活の主は私たちの日常を回復されたのです。
8月6日、8月9日、3月11日、4月16日 それはそこにあった日常が失われました。生活の基盤である財産、家、家族、希望、笑顔、夢・・・
私たちはその日常を失った人々に寄り添っていきたいと思います。しかし、悲しいかな忘れてしまうもしくは実感がないがために対岸の火事のように無関心になってしまうのです。当事者にとっては忘れられない日であってもです。
しかし、復活された主は違います。私たち1人1人のそれぞれの「日常」に共にいて下さりそして回復されようとしているのです。
復活されたイエスの姿はまさに私たちの日常のただ中にいらっしゃるのです。ハレルヤ