大斎節第5主日礼拝説教(2017年4月2日)

主イエスの涙~ラザロのよみがえりに示された神の憐れみ~

(聖書箇所 ヨハネによる福音書第11章17節~44節)

復活日まで2週間となってきました。今日の福音書は「ラザロの復活」という有名な箇所であります。また、主イエスがラザロの死を目の当たりにして涙を流されたという印象的な場面が選ばれております。
主が涙を流されたという箇所は聖書の中では2箇所しかありません。ラザロの死の場面と主のエルサレム入城に際して、エルサレムに近づいたとき、都が見えたときに涙を流されたとルカによる福音書19章41節にあります。
主が涙を流されたのはなぜなのでしょうか。必ず意味があると思います。今日は主の涙の理由をご一緒に考えてみたいと思います。
マルタとマリア、そしてラザロの兄弟は主に愛されていました。そのラザロが病気で亡くなったとの知らせが届きます。
マルタはイエスに向かってあなたがもしここにいてくれたらラザロは死ぬことはなかったのに、あなたが願うことは神様は何でもかなえてくださるのにと嘆きました。
主は「あなたの兄弟は復活する」、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と問われました。この御言葉は葬送式の聖句でも必ず唱えられるものです。
この問いに対してマルタは「はい、信じます。」と答えました。
次にマリアが主と出会います。マリアもマルタと同じようにあなたがもしここにいてくれたらラザロは死ぬことはなかったのにと言って嘆き、涙を流されました。
マルタとマリアもそして周りにいたすべての人々がラザロの死を悲しみ、嘆き、涙を流されたのを見て主イエスも涙を流されました。
主は悲しみを共有されました。しかし、主の涙にはもっと深い理由があると思うのです。
「ラザロ」は「エルアザロ」という意味があります。「エル」は神、「アザロ」は憐れみという意味があります。つまりラザロは「神の憐れみ」という意味があります。
マルタとマリアは主の復活を信じると告白しながら、兄弟の死という現実に直面して主への信仰が揺らいでいるのです。悲しみや嘆きが彼女たちを覆ってしまい、神の憐れみを受け止められないでいます。このことを主は嘆いて涙を流されたのです。「死」という現実、愛する人の死に直面したマルタとマリア、また周囲の人々を支配している悲しみや絶望が神の憐れみ、神の愛を封じ込めてしまっているのです。
また、ラザロは墓に葬られ、大きな石で人々は墓を閉じてしまいました。これも、人々は神の憐れみを封じ込めてしまったのです。しかし、神の憐れみは死を克服しました。主は「ラザロ、出てきなさい」と言って神の憐れみ、神の愛を解き放ちました。
この物語は、神様の憐れみを閉じ込めてしまった、また死の悲しみによって心を閉ざしてしまった人々のことを心から憐れみ、涙を流され、悲しみを共有された主イエス、そして神の愛は死によって封じ込められるのではなく、むしろ悲しみ、嘆いている人々の心により強く注がれていくのです。ですから私たちは祈るのです。悲しみ嘆く人と共に泣き、そして心から神様の憐れみを願い祈らなければならないと思います。
私たちのこれからの歩みの中で、神様の憐れみや、愛を受け入れることが出来ない時があると思います。そんな時は、マリアやマルタのように主に嘆いてもいいのです。主は必ず一緒に涙を流してくださいます。そして、大きな憐れみを絶えず与えてくださっています。
神の憐れみを封じ込めるのではなく、受け入れることが出来るような私たち一人一人でいたいと思います。主が涙を流されたのは、主が真に悲しみを共有してくださるということであり、また私たちのためにいつも憐れみを与えてくださっていることを私たちに伝えるためであったのではないでしょうか。今日はラザロの物語を通して主が私たちにお示しくださった事を心にしっかりと覚えたいと思います。