聖霊降臨後第11主日礼拝説教より(2017年8月20日)

しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。

主イエスとひとりのカナンの女との問答です。二人の間を行き交う共通のイメージは、「小犬」です。やんわりと、子供と小犬の譬えで、母親の願いを断ったつもりが、その小犬の譬えで、イエス様のほうが一本取られてしまいます。

わたしに言わせれば「小犬も、主人の食卓から落ちるパンくずはいただく」というのは、まだおとなしすぎる表現で、「小犬は、主人の食卓から、分け前を得ようと、待ち構えている」というべきかと思います。もちろん、文字通りの小犬に限りません。愛されている犬には微塵の卑屈さもありません。食卓の下にいても、何の屈託もなく、がんがんプレッシャーをかけてきます。

私も昔犬を飼っていたことがあります。名前をジョリーといいました。大型犬でしたが大変可愛い犬でした。そして今でも思い出に残っているのがその目です。何か必死になって飼い主の私たち家族に目で訴えてくる。動物を飼っている方なら分かると思いますが、その必死さは本当にすごいもので、最後には根負けして食べ物をあげてしまったりしてしまいました。また悪さをすると叱りましたが、それでも飼い主を信頼してよくなついた犬でした。イエス様とこの女性の会話の中に出てくる「小犬」も必死に生きて、主人のそばを離れようとしません。

イエス様もすぐにそういう犬の生態を思い起こされて言われたのではないでしょうか。そして次のように言われます。

そこでイエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。そのとき娘の病気は癒された。(マタイ15:26)

イエスは、この女性に感服されます。つらい中でも、あきらめず、卑屈にならず、機知をもって、一途に願い、一途に生きている、一人の母親、その命に深い共感を示され、そこに真実の「信仰」を見られるのです。

マルチンルターが、この箇所の説教で、「この女は恵みをもぎ取ったのだ」と記しています。そうです。彼女はイエスから恵みをもぎ取ったのです。「恵みをもぎ取る」とはいい言葉です。それは、神様からいただく恵みは、けっして、遠慮がちにいただくものではないことを表しています。

わたしたちは、主の恵みを求めるのに、図々しくさえあっていいのだと思います。「謙遜な傲慢」という心のカラクリがあります。差し出された恵みに対して、「自分はそれを受けるにふさわしくない」と謙遜にも辞退することです。主は、「あなたの罪を赦す」とおっしゃってくださっています。「無条件に赦す」とおっしゃってくださっています。けれどもそれにたいして、「自分は赦されるに値しない」と、まるごと神の懐に飛び込まない、それが「謙遜な傲慢」です。

自分の罪が赦されるのを信じることは図々しいことです。なにか償いに足ることをやり遂げて、晴れて赦されたいと願うかもしれません。「償い」です。「罪滅ぼし」です。けれども、「罪滅ぼし」は、キリストの十字架によってなされたのです。わたしたちは、その恵みを、自分に条件をつけることなしに、懐に飛び込んで、喜んで受けるだけなのです。罪滅ぼしが、主の懐の中にあり、癒す力、生かす力が、主の懐の中にあります。主の恵みはむしろ、ただそれを受けるべきもの、場合によっては、「もぎ取る」ようにいただくべきものです。主はそれを喜ばれるのです。

叱られても、叱られても、変わることのないワンちゃんの、素直でひたむきで、主人を信じきっている目には、ハッとさせられるものがあります。わたしたちも主に対しては、このように、しばしば叱られるものであっても、素直でひたむきで、主を信じきって、生きてゆくものでありたいと願います。