聖霊降臨後第8主日礼拝説教より(2017年7月30日)
皆さんはからし種をご覧になったことがあるでしょうか。アブラナ科の植物です。ゴマより小さい種です。お菓子についてるケシ粒、あれよりも小さいです。そのゴマよりもケシ粒よりも小さい種がからしの木になります。皆さんはからしの木をご覧になったことがあるでしょうか。私がみた「からしの木」は、ひまわりよりも少し大きいいくらいでしたが、もっともっと大きくなるそうです。
ひと粒のゴマよりも小さい種が、大きく育っての鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。 この小さな一粒の種にイエスは注目し天の国とはそういうものだ、とイエスさまは語りました。イメージしてみましょう。
先日、数年前に購入したデジタルカメラガ壊れて電機屋に修理をお願いしたところ「すでに備品の生産が終了していて修理ができません」とのことでした。大量生産、使い捨ての時代を象徴するような言葉です。現代は「数や量が物を言う時代」であると言われて久しいですが、同時にこのような社会の動きの中で人間が孤立した時代でもあるのではないでしょうか。
しかし、本来、社会がどう変化しようとも、人間はやはり「一人」の存在なのではないでしょうか。この場合、ひとりというのは人間がみんなひとりぼっちで孤立しているという消極的な事を言っているのではなく、人間は一人ひとりがかけがえのない存在として、神様によって創られたという積極面を言い表しています。
一粒の小さなからし種が、空の鳥を宿すような大きな木に成長するように、ひとりの人間はたとえ小さく弱く見えようとも、かえがえのない大切な存在であり、他の誰によっても替わることのできない、その人固有の意味と使命をもって生きているのです。
「十人十色」という4字熟語があるように、同じ人間はいません。一人ひとりに神の愛が注がれ、ひとりでも滅びることは神の意志ではなく、全ての人を救うためにイエス様は
十字架の上で血を流されたのです。
ユダヤの社会では「からしだね」のようなものという表現は、小さいことをあらわすのによく用いられたそうです。しかし、この種は大きく成長する種です。
このたとえは神の国のたとえであり、神様の大いなる招きを語っています。当時の社会で見向きもされなかった徴税人や罪人であっても、あるいはユダヤ人から差別されていた異邦人たちであっても、この招きからもれることは決してありません。
私たちは「群集心理」という言葉にあるように、大きなもの、大勢の方に目を奪われる傾向にあります。そうすると小さいもの、小数のものを見過ごしてしまいます。しかし、イエス様は小さいものにしっかりと焦点が合わせられています。一人ひとりがかけがえのない存在として作られ、神の国へ招かれている。その招きの入り口は小さいところにあるのかもしれません。ですからそれを発見したときの喜びは大きなものであると思います。
私たちはごくごく小さなものに常に思いを寄せ、そして私たちも小さなものであるということを自覚して神の国の到来を待ち望みたいと思います。