復活節第6主日説教(2017年4月21日)
「つながってきた枝」
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。(ヨハネによる福音書15:4~5)
イエスさまが語られた上記の言葉は、とても有名な言葉です。この言葉から、すなおに導かれるのが、「つながり」です。イエスさまはご自分をぶどうの木と言われ、わたしたちをその枝と言われます。木と枝は、つながっているのです。つながっていない枝は、枯れるのです。役に立たないのです。木につながっていることが枝の役目なのです。木につながっていれば、命が与えられます。枝としての働きができます。
イエスさまは、木と枝のつながりを大切なことと言われます。そのつながりを大切にして歩みなさいと。これは、わたしたちが、イエスさまとしっかりとつながっていますかという問いでもあります。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。そのつながり方をイエスさまは問題とされるのです。
「わたしにつながっていなさい」と言われます。そして、「わたしもあなたがたにつながっている」と言われます。つながっていなければ、命がないと。木につながるということは、命をつなぎとめていられるということです。また、豊かな実りをそこに得られるというのです。枝としての役目を果たせば、豊かな恵みをいただけると言われます。
しかし、わたしたちは、普段、自分だけで、生きることができるという錯覚を持っています。一人一人の力、その資質、自己努力、自分が持っているものをすべて使ったところで、豊かな実りを得られると勘違いします。特に、普段、困ることを知らない時にはなおさらです。
けれども、自分の力ではどうすることもできない時に、気付かされます。自分の力ではどうしようもないと。これが限界だと。その時に、自分を超えるところからの恵みを意識するのです。そして、自分の力で生きているのではなく、神様に生かされているのだと知るのです。その時、神様とのつながりを、またイエスさまとのつながりを知るのです。そのつながりは、ただつながっているということではありません。命が与えられているというつながりです。
イエスさまにつながるとはどういうことでしょうか。それは、イエスさまからの栄養分をもらい続けていくということです。また、イエスさまからのメッセージを聞くことができるということです。イエスさまは、つながりの中で、わたしたちに豊かな実をつけることができるように導いてくださいます。そのつながりは、神様と自分というだけにとどまりません。木にはいろいろな枝があります。そうです、他の人もつながっています。その多くのつながりこそ神様が求めておられるつながりなのです。木と枝がつながっていることと同様に、多くの枝がその木につながっていることをもわたしたちは忘れてはならないのです。