聖霊降臨後第12主日(特定16) 礼拝説教より

「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」というイエスの質問に対して、弟子たちは「エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だ、洗礼者ヨハネだ」と、すぐに答えることが出来ました。しかし、「ではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いには、恐らく答えにくかったのでしょう。そんな中にあって、ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉は、世間の噂や評価に左右され、人からどう見られているかが気になってしまう人間の弱さから解放された言葉でした。自分の体裁を気にして安全なところに立っていたいという思いや、多勢の意見や強いものに迎合しようとする傾向のある私たちへのチャレンジがそこにあるように思います。
ペトロは、イエスがメシア=救い主、生ける神の子だという本質を見出して、告白した最初の人物です。メシアというヘブライ語は、ギリシャ語でクリストス=キリストですから、私たちもイエス・キリストと言葉にする度に信仰の告白をしている事を忘れてはなりません。
ペトロは、イエスから褒められ、教会の基となったような偉大な人物ですが、先々週の福音書では逆風の湖の上でイエスを疑って沈みそうになりましたし、偽証の罪で捕らえられたイエスの仲間だと疑われた時には、3度もイエスのことを知らないと言ってしまいました。また、イエスが十字架で死なれた後には、他の弟子たちと一緒に部屋の戸に鍵をかけ、心の扉に鍵を掛けてしまっていました。このように、しばしば弱い存在として聖書の中で描かれています。これはなにも、ペトロが特別に弱かったというのではなくて、私たちの内にも様々な弱さがあるように、私たちと同じ弱さを持った人間であったという事です。イエスは、そんな様々な弱さを持ったペトロに、ひいては私たちの上に「教会を建てる」、「天の国の鍵を授ける」と言われました。
ここでいう教会とは、何も建物のことだけを指すのではありません。教会とは「イエスはメシア=救い主、生ける神のです」と告白する者、イエス・キリストとみ名を呼ぶ者の交わりです。イエスによって癒され、心を解き放たれた女性や病人、神さまのみ心から離れかけていたけれど、イエスによってつなぎとめられた人々が集り、共に祈り、強め合う交わりが教会です。神さまはイエスを通して、イエスはペトロという弱い一人の人間を通して、教会という交わりを建て、天の国の鍵を授けると言われます。
そもそも「鍵」というものは、家や車、自分の部屋や金庫を開けたり閉めたり、止めたり動かしたりする為にあります。イエスの授ける鍵とは、自分の弱さに鍵をかけてしまいたくなる私たちに、その弱さを強さに変えるもの、本当の正さを選び取る勇気としての鍵です。私たちはその鍵を携えて、人と人とをつなぎ合わせ、固い頭や、先入観、人々の噂や不正、高慢さ、自己欺瞞や自己嫌悪といったものから解かれていきます。この天の国の鍵によって、地上でつなぎまた解くことは、天上でもつなぎ・解かれるとイエスは言われます。人間の力だけで鍵が開けられるのではなく、神さまによって心の扉が開けられ、「イエスはメシア、生ける神の子です」と告白できるのです。
「天の国の鍵」は、持ち主である神さまと、その持ち主から信頼され、許可を得た者がその管理を任されています。私たちにはどこの部屋のどんな鍵が授けられているのでしょうか。それは人それぞれに異なると思いますが、教会の鍵はただ一つです。イエスによって建てられた交わりである教会の鍵は、十字架の死と復活によって示された神さまの愛です。