復活節第7主日・昇天後主日礼拝説教(2017年5月28日)

今日の福音書は、「大祭司の祈り」とも呼ばれるイエスの祈りで、この祈りは十字架に向かう直前の祈りであると同時に、現在の教会共同体のための主イエスの祈りとなっています。主は弟子たちのため、そして私たちのために祈ってくださっています。わたしたちが祈っているのではなく、わたしたちこそ祈られているのです。
イエス様の祈り、イエス様の教会への深い思いを黙想したいと思います。主イエス様は祈りの方でした。行動を起こすとき、そして奇跡を起こした後などは決まって祈りを捧げている箇所が新約聖書の中にはいくつもあります。しかし、本日取り上げられているヨハネによる福音書17章ほどまとまった祈りは、他にありません。
主イエスは弟子たちのため、そして、イエス様を信じるすべての者のために祈られます。イエス様が天に上げられた後、なお世に残る者たち、神からイエス様に与えられた人々をお守りください、という祈りです。
ここで心に留めておきたいのは、この祈りが最後の晩餐の席で、弟子たちの前で祈られたという事です。十字架に向かわれる前、ご自身の苦難について祈られることをせずに、弟子たちのために、神にとりなしを祈ってくださったということです。
しかし、この後、弟子たちは十字架のイエス様を見捨てて逃げ去ってしまいます。どうしてここまでイエス様が祈ってくださったのにも関わらず、弟子たちは逃げてしまったのでしょうか。それでも主イエスは、あの十字架の上でさえ、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈り、弟子たちを赦されたのです。イエス様という方は一体なんという方なのでしょうか。
このように、イエス様は祈っていただくに値しないような行動を繰り返し、そして裏切った弟子たちのために祈りを捧げてくださったのです。弟子たちはもう絶望的な状況に追い込まれたことにより逃げてしまいました。「もう何をしても駄目だ」「もう終わりだ」「祈ったところで何の意味があるんだろか」と思っていたのでしょうか。
主イエスは違いました。どんなに絶望的な状況であっても、どんなに過酷な運命が待ち受けていようとも祈ったのです。祈り続けたのです。それも自分のためではなく、弟子たちのために祈ったのです。イエス様の熱い深い弟子たちへの思い、そして今を生きる私たち一人一人への思いを感じましょう。
わたしたちも祈りが空しくなるときや、祈りに疑問を感じたり、祈りの力を信じられなくなることがあると思います。まさに、主の十字架を前にして逃げ出してしまったあの弟子たちと同じ状況だと思います。そのような思いを抱いた時は、どうぞ思い出してください。主イエス様が私たちのために祈ってくださっていることを。私たちの祈りと共に一緒に祈って下さっていることを。ルカによる福音書第22章31節ではペテロの裏切りを予告しながらも、「私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」とあります。弟子たちの裏切りを知っていながら、主イエスは彼らを見捨てなかったのです。見捨てないばかりか「信仰がなくならないように祈ってくださった」のです。

イエス様は、この祈りを最後の晩餐の席で祈られました。最後の晩餐を記念する聖餐式にあずかるとき、そのたび毎に私たちは罪深く、同じような過ちを繰り返し、ともすれば神から離れてしまいがちな自らを思い、そのような私たちのために今もなお、とりなしてくださっているイエス様の祈りがあることを思い起こさねばならないと思います。
そして、ご自身のことは顧みず、私たち世に残る者のために今も祈ってくださるイエス様が確かに私たちの中にいらっしゃるんだという事を忘れずに生きていきたいと思います。