聖霊降臨後第6主日礼拝説教より(2017年7月16日)
今週の福音はイエス様の有名な種まきの譬えです。パレスチナ地方の農法は、私たちが普通イメージする種まきとは異なります。日本のように畑を耕してから、種をまくのとは違い、先ず種を蒔いてから耕します。そのため、無駄になってしまう種も沢山あります。
譬えには、農夫がまいた種がそれぞれ道端、土の浅い石地、茨の間の地、そして良い土地という4種類の土地に落ち、4通りの結果が出たことが描かれています。
農夫とは神の国の福音を宣べ伝えるイエス様御自身のことです、また種は福音、そして土地は、聞く者の心の状態を指します。イエス様が問題にしておられるのは、当然ですが種そのものについてではありません。聞く者の心の状態について述べておられます。
私たちは普通、この譬えを聞く時、4種類のタイプの内、最後の4番目の様に、つまり良い土地のようでありなさい、とイエス様から教えられているように受け取るものです。この場合、私たちは前提として信仰に対する4種類のタイプの人を想定しています。道端は、この世の常識に頑なになっていて福音を受け入れようとしない人、石地は、関心はあっても一たび困難があると躓いてしまう人、茨の間の地は、この世の富への誘惑や執着に心が塞がれて信仰の成長できない人、そして最後の4番目、良い土地は、御国の言葉を聞いて「悟る」人とあります。この「悟る」人とは、聞き「従う」人、つまり具体的な行為を伴う人のことです。
ところで、今週の福音全体を改めて読む時、18節を境に焦点が移動しているのが分かります。即ち、前半が種(御言葉)の運命に焦点が当てられているのに対し、後半は、種をまかれた人の側に焦点が移っているのです。恐らく、18節以降は、イエス様の譬えをマタイ教会が信仰生活の戒めのために行った解釈であると言われています。しかし、一方で、今日の私たちがこの譬えを聞く時、次のように解釈することもできないでしょうか?つまり、イエス様はこの譬えによって、私たち一人ひとりに粘り強く、福音の種をまき続けてくださる神様の愛を伝えようとされたという解釈です。私たちは信仰生活において4者の何れかに限定されるものではなく、むしろ4者いずれの心の有り様を経験していくものです。私たちは誰しも最初に福音が蒔かれて以来、今まで様々な山あり谷あり、時に心が受け付けず道端であったり、時に興味を失って教会に心が向かない石地の状態になっていたり、また時に、様々な世の中の誘惑に心が塞がれ茨の間の地になっていたりという逆境を体験しるものです。しかし、神様は粘り強く種をまき続けてくださっています。そして私たちが良い土地になるため、石や茨を取り除いては日々耕してくださっています。だから、私たちは今教会にこうして連なり、信仰生活を続けることができているのです。
私たちは、誰も自分で「良い土地」になることはできません。また、神様によって耕して頂かなければ、誰も「良い土地」に福音の実を結ぶことはできない弱い存在です。だから神様はついには御子であるイエス様を種として私たちの間に蒔いてくださいました。「一粒の麦」(ヨハネ12:24)の種としてイエス様は十字架で死んでくださったのです。しかし、そんなイエス様を神様の栄光を表すために死の中から復活させられました。それは私たちがすでに今、そしてたとえこの肉体が朽ちた時も永遠に死ぬことのない命の種をまいていただくためでした。このように考えれば、結局、御国の言葉とはイエス・キリスト御自身のことなのでしょう。最後、これからも私たちは時に心が道端であったり、石地であったり、茨の間の地であるかも知れません。しかし、神様は私たちの内にすでにイエス・キリストという命の種をまいて下さっています、しかも神様は良い土地であるようにそして、教会において私たちが良い実を結ぶよう、つねに守り導いてくださっています。