聖霊降臨後第3主日礼拝説教より(2017年6月25日)
イエス様の示された宣教の業は、多くの人々に神の福音をのべ伝えるものでした。けれども、そこには困難もありました。ことにユダヤ教の指導者やファリサイ派の人々からの妨害でした。イエス様の指示に従うことは、自分たちにも迫害が起こり、嫌疑を向けられるということでもありました。弟子たちの進むべき道は明らかに不安の多い道でした。しかし、避けることのできないものでした。
そのような状況は、今の世の中にもたくさんあります。あることをはじめようとすると、そのことを快く思わない人々が現れ、そのような人々からの反対に遭うことになります。どこの世界にも反対勢力は存在します。けれどもイエス様は、そのような人々を恐れてはならないと言われます。なぜなら、神様のみ業にだれも反対ができないからです。
昔の預言者のエレミヤもまた同様のことを語っています。神様のみ業を人々に伝えることにより多くの誹謗中傷を受けたと。けれども、「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても主の言葉は、わたしの心の中骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです」とエレミヤは告白しています。エレミヤは、預言者としての働きをすることにより、人々からの反対にあったのです。その苦悩の中で、むしろあくまでも神様に忠実であることが自分の使命であることを知ることになったのです。
イエス様は、弱いわたしたちに、人々を恐れることよりも、むしろ神様こそ恐れるべきだと教えられます。自分の利益や特権を守ることを優先したり、そのために偽りをのべることなど、そのすべてを神様はご存知だと言われます。わたしたちが大切にしなければならないことは、神様のみ心に忠実であるかどうかです。目先の利益を優先するのではなく、わたしたちと共に歩んでくださっておられる神様、隠れたことを見ておられる神様のみ旨を大切にしなければならないのです。またわたしたちは、わたしたちの行いが神様のみ旨に適っているかを絶えず問うことも忘れてはなりません。