聖ルカ祭 説教(2017年10月15日)

聖ルカ祭を皆さんとお祝い出来ますことを感謝いたします。昨年は宣教120周年を記念し、加藤博道主教様の司式説教、そして東北教区と親しき交わりにあります姉妹教区米国聖公会ルイジアナ教区主教モーリス・キング・トンプソン主教様にご臨席頂き記念礼拝をお捧げ出来ましたことをまるで昨日のように思い出しています。あれから1年が過ぎました。時間は止まることなく前に進みます。私たちの歩みは早いときもあれば、順調のように思える時もあれば、その逆もあります。しかしながら、主イエス様と共に歩む旅は今日も続いています。ですから、一所の留まるのではなく、私たちは派遣の民として今日もここに集められ、そしてまた派遣されているというミッションを忘れないようにしたいと思います。これが祈りの呼吸です。

さて、例年ですと聖ルカ祭は教区主教様が聖ルカ教会を巡回され、司式と説教をそして堅信志願者がおれば堅信式の司式をして下さっていました。
今年は教区主教が不在のためそれは適いません。しかし、皆さんもうすぐです。
来月11月30日(木)に教区主教座聖堂(仙台基督教会)で主教被選者 ヨハネ 吉田雅人司祭が神さまのお許しがあれば公会の主教の職に按手され、第8代東北教区主教の座に就任されます。楽しみですね。私たちの待ちに待った日が来月に迫ってきています。
皆さんでお祈りしましょう。

本日の聖ルカ祭は福音記者使徒聖ルカ日(10月18日)聖書の箇所が読まれました。
ルカによる福音書4章14節から21節の聖書のみ言葉に心を向けたいと思います。

内容を確認しましょう。主イエスは宣教活動を始められてからしばらくして、生まれ故郷であるガリラヤ地方のナザレの村に戻ってきました。そして安息日であったので会堂で礼拝に参加し、聖書の朗読をされました。
そこで読まれたのがイザヤ書のみ言葉でした。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」という箇所でした。まさに主イエス様のミッションそのもののです。

聖書朗読をした者がユダヤ教の礼拝では説教をすることになっていたようです。
会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていたと記されています。

イエス様は言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
イエス様が私たちのもとに遣わされてきた(ミッション)のは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にして、主の恵みの年を告げるためでありました。実際に、社会の中で、この人間関係の中で身動きがとれなくっていた人を主は訪ね、出会いそしていやされていきました。
神さまのなさったことは実に具体的です。ナザレの村、そして周辺のガリラヤからはじまった小さな奇跡が具体的に始まっていったのでした。それが次第に広がっていったのです。

捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人とは誰でしょうか。そしてそれは何が要因になっているのでしょうか。

イザヤ書の巻物が読まれた時にすべての人の目がイエスに注がれていたのは、すべての人が「わたし」が救いの言葉を聞きたい、そして解放されたい、歩むべき道を見えるようになりたい、そしてこの抑圧から解き放って欲しい思いを持っていたからです。

そして、実際に主は「あなた」と「わたし」という対人関係の最小単位を大切にされました。非常に具体的な関わりです。最小なことに忠実な者は大きな事にも忠実であるという
聖書のみ言葉が示すように、個人と個人の物語が、普遍の物語(すべての人に響く)へなっていくからです。

私たちのミッションも派遣され、信仰に固く立って歩むことです。イエス様から決してかけ離れない事を意味します。それが不動心というより、捕らわれ、目が見えず、圧迫されている苦しんでいる人間と共に激しく揺れ動き続けた主イエスの道から離れずに、歩むことです。主イエスが私たちのために苦しんで下さったように私たちもむしろ、大切に思う人の苦しみを見、揺れ動くことが求められています。

八戸は強い風がよく吹きます。聖書では「風」は「聖霊」を指しています。聖霊は苦しむ者に向かって、命を吹き込む神の風です。その風をいっぱい受け、前進で激しく揺れつつ、苦しむ人間と共に立ち続けるのが主イエスです。

私たちは、木々のように、風を受け激しく揺れて良いのです。
揺れて揺れて揺れながらも主に従って生きて良いのです。

なぜなら、主ご自身も苦しみ、揺れながら私たちと共におられる方だからです。

どうぞ聖ルカ祭に与えられた喜ばしき主の恵みを感謝しましょう。

そして、今この瞬間から揺れ動きながら私たちと共におられる主イエスと共に歩みましょう。