聖霊降臨後第7主日 礼拝説教より(2017年7月23日)

「麦と毒麦の成長を見守る主イエス」
4人の福音書記者の中で、マタイだけが、世の終わりについて雄弁に語っています。マタイは、物事が白か黒か、良いか悪いか、また人間が忠実か不道徳か、祝福されているか、はっきりと二つに分ける明快な語り方を好む人のようです。
しかし、私たちにとっては逆効果になりがちではないでしょうか。マタイには、この世界には2種類の人間、つまり麦と毒麦しかいないことが明瞭であったかもしれません。ですから、このたとえ話から導かれることは「毒麦に支配されないようにしなさい」となります。
しかし、わたしたちはたいてい、自分自身の中に、隣人の中に、そしてこの世界の中に、麦と毒麦の両方を合わせ見ているのではないでしょうか。(先週の種まきの4タイプもそうです!!)
もはや白か黒か、麦か毒麦かというような明瞭さを手にしているわけではないのです。
私たちの畑のほとんどは混合栽培、またはそれよりひどい状態です。もし、私が自分の畑をじっくり調査したなら、もはやそこには麦と毒麦のどちらも見つからないような気がします。それらは一緒に育ってきたので、交配種というべきか、どちらの種類ともいえない雑種になっていることでしょう。ですから、主人が毒麦を集めて焼くという話を聞くと、わたしは少しびくびくさせられ、「自分はいったいどちらだろう。麦だろうか、毒麦だろうか。祝福を受けるのだろうか、呪いを受けるのだろうか。」と考えてしまいます。
良い植物と悪い植物を見分けることは難しいことですが、もっと難しいのはそれがどちらにもなり得る場合だと思います。昔、私も雑草だと思って抜いた植物が貴重な花であったことを知りました。また、この植物はおもしろいから取っておこうと思ったら、後で厄介なことになってしまったこととか・・・
わたしたちは人生で一体何を根拠に、自分を、また他人を少しでも知っていると考えるのでしょうか。わたしたちは、あたかも麦と毒麦の違い、良い種と悪い種の違いを知っているかのごとく、判断してしまいがちですが、本当に知っているなんてことはめったにないのです。良い人間になろうと出かけていっては毒麦と格闘しようとしますが、結果的には刈り取ってしまった麦の中で立ち尽くすことになるのです。
けれども、もしもわたしたちが、この種を蒔く人の話に迷いながらも耳を傾けていこうとするのであれば、立ち尽くしたままの状態では終わらないでしょう。
種を蒔く人はイエス様です。イエス様は「毒麦も麦も放っておきなさい。両方とも育つままにしなさい」という主人の思いに従われました。混じりけのない作物や、整然とした畑や、効率的な運用に対しての関心ではなく、麦の成長にこそ最大の関心があることに私たちは思いを向けたいのです。
そして、危険を承知で、豊かな麦の生長のためには毒麦をも豊かに育てるのだということを教えてくれています。そしてそのすべてを生長させる畑の主(あるじ)は御自分であるということを私たちに伝えてくださっているのだと思います。
麦と毒麦を併せ持ちながら日々迷い生きている私たちに寄り添い、私たちの成長を見守ってくださっているお方が確かにいらっしゃるということを今日、私たちに与えられた福音を通して確認いたしましょう。