聖霊降臨後第2主日礼拝説教(2017年6月18日)

ひどく緊張したときや不安になったとき、どうでしょうか。胃にきますか、それとも腸にきますか。わたしは、どちらかというと腸にきます。ひどい不安や気持ちが圧迫されたとき私の場合は腸にきてお腹をこわします。汚い話で申し訳ないのですが、いかに心と体とは一体であるかがわかります。
現代の医学や科学では、気持ちや思いはすべて脳に還元してしまうようです。しかし、古代の人々は違いました。彼らにとって感情の座があるのは内臓とくに心臓、そして胸のあたりだと見なされていました。現代でも、科学がたとえ脳を強調したとしても、私たちはむしろ胸やお腹に感情がある、という方が実感としてはあるのではないでしょうか。今でも、つらい話を聞いたときには胸が痛む、とか、相手の良心をよびさますのに「胸に手を当てて考えてごらん」というような言い方があることを考えてもこのことがわかります。
群衆を見てイエスは憐れんだ、とあります。ここでの「憐れむ」を調べてみますと、「はらわたのちぎれる思い」「断腸の思い」という意味が使われています。つまり、単に「かわいそうに思う」のではなく、群衆を見てイエスは「はらわたを痛め」ているのです。飼い主のいない羊のように、つまり、どうしていいのか何に頼ればいいのかわからないくらい混乱し、苦しみ痛んでいる民衆を見て、イエスは「はらわたを痛め」ているのです。
日本語の「憐れむ」には上から下に見下すようなニュアンスが強いように思います。しかし、イエスの「憐れみ」はそうではなく、痛み苦しんでいる人と同じところに立とうとし、同じように「はらわたを痛める」、というそういう意味での「憐れみ」でした。それは相手の悲しみ・苦しみを理解し共に悲しんだり苦しんだりする気持ちともいえると思います。そして、さらに、この「憐れみ」は共感にとどまらず積極的に相手を助けようとする気持ちを含むものでした。イエスは悲しむ民衆に共感するだけでなく、自分の方から積極的に出かけていって会堂で教え、病気や患いを癒されています。このように、はらわたを痛め、共感しさらに相手を助けようとすること、これがイエスの「憐れみ」でした。
その「憐れみ」はまた、呼びかけともなりました。イエスは自分だけが行動するだけでなく人々に呼び掛けてもいます。「働き手」が与えられるよう願うようにと、弟子たちにも呼びかけています。しかも、その「働き手」はイエスの目の前にいる弟子のみを指しているのではありません。イエスに惹かれ、キリストに捉えられた人々をも含んでいます。それは教会への招きのことばでもあります。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい―。」
こうして12人が集められました。そして、私たちもまたこのように集められています。集められましたが、集めておしまい、とか集まってそのメンバーで楽しもう、というのではありません。集められた次には、派遣が来ます。神さまの呼びかけはまず集め、それから送り出されます。そして派遣にあたってイエスは弟子たちに「天の国は近づいた」という言葉を授けられました。この言葉はまた、イエスが宣教のはじめにあたって用いた言葉とまったく同じものです。私たちはもちろんイエスではありません。しかし、イエスが取り組まれた働きと同じ働きに取り組むし、また、そうするよう呼びかけられています。
しかも、その働きをするのには、特定の資格が必要、というわけではありません。そのことは12弟子のなかに、徴税人マタイや熱心党のシモンが含まれていることによくあらわれています。弟子になる人、「働き手」になるひとが清く・正しい人でなければならないとしたら、この二人は弟子となることはできませんでした。徴税人は当時、汚れた人々と思われていたし、熱心党というのもかなり偏狭な民族主義的グループだったので、多くの人々からあまり良く見られていなかっただろうと思います。それに12人の弟子は誰一人として清く・正しい人ではなかったはずです。誰でも弟子に、誰でも働き手となれます。
ただし、「働き手」といっても行動主義ではないでしょう。「○○を行なわなければならない」とか、ある特定の行動をしなければならない、としたらただちにそれは律法になりさがってしまいます。イエス当時も弟子は12人以外に沢山いました。そしていろんな人がいたと思うのです。ある人は積極的に活動的に旗をふって先頭に立ったことでしょう。その一方で、ただそこにいるだけで、人の気持ちを和らげたり、なごませたりする人もいたと思います。目に見える行動をする人も、しない人も含めて私たちは、収穫の主の働き手です。
病人を癒し、死者を生き返らせ、悪霊を追い払う―この文字通りのことは私たちにはできないかもしれません。しかし、現在の生活の中で、病人とは一体誰か、そして病人を癒すとはどういうことか。また、体は生きていても人間らしさ、という点では死んでいる人がいるのではないか。また、現代で悪霊とはなにを指すだろうか。そして、その悪霊を追い払うにはどうしたらいいだろうか。このように、病人を癒す、死者を生き返らせる、悪霊を追い払う、ということが、現在の生活のなかでどういうことなのかでしょうか。私たちに出来るのでしょうか。イエスに呼び集められて、そして派遣された私たちに何が出来るのでしょうか。
そこで私たちが常に心に覚えておかなければならないのは、イエスの憐れみだと思います。つまり、痛み苦しんでいる人と同じところに立とうとし、相手の悲しみ・苦しみを理解し共に悲しんだり苦しんだりする気持ちを持ち続けることだと思います。教会はこのイエスの憐れみに立ち続けなければなりません。私たちは主の働き人です。たくさんの恵みを神様から頂いているのです。与えられた恵みをいかんなく発揮してイエスの憐れみに立ちながら歩んで参りましょう。