大斎節第4主日礼拝説教(2017年3月26日)

「目からうろこが落ちる」ということわざがありますが、これはあることをきっかけにして急に物事の真相や本質がわかるようになることを言うのだそうです。これは、聖書から生まれた言葉です。新約聖書、使徒言行録によれば、あるときサウロ(後のパウロ)が不思議な経験をするのです。彼はダマスコという町に向かっていました。町に近づいたとき、彼は突然雷に打たれるような経験をするのです。
このときのことを彼は後にイエスに出会った出来事だと書いています。とにかく彼はそのことによって目が見えなくなって、人々から手を引かれてダマスコまで連れて行かれたのでした。そして、彼はキリスト教徒のアナニアという人に出会います。アナニアはパウロに対して親しく呼びかけ彼のために祈りました。すると、目からうろこのようなものが落ちてきて、パウロは元どおり目が見えるようになったと聖書は記しています。
目からうろこが取れると、よく見えるようになると言われます。私たちは、世界のことがよく見えるようになるために、教育を受け、勉強を重ねます。それは本来私たちの目にくっついているうろこを、一つ一つはがすためであるはずです。しかし、これらが逆にうろこそのものとなって、人々の目をふさいでしまうことがあります。いわゆる教養が邪魔をしてその人を囲い込んでしまい、視野を狭め、あるいは閉ざしてしまうのです。今日の福音で登場してくるファリサイ派の人々がまさにその典型のように思われます。安息日に代表される、当時の宗教行為、律法についての教養があふれすぎて、かえってその教養に邪魔をされ、一人の目の見えない人の中に息づく命の躍動が見えなくなっていたのです。
もしかすると、今現在わたしたちのまわりにいるたくさんの人々の中にわたしたちの目からうろこを落としてくれるようなそんな存在がいるのかもしれません。あるいは、これから出会うであろうたくさんの人々の中にもそんな存在がいるのかもしれません。そして、ふとしたきっかけで、たまたまのようなことで、わたしたちの目のうろこを落としてくれるのかもしれないと思うのです。そのことによって、わたしたち自身が変えられていくことがあるのかもしれません。
わたしたちは今多くの事柄を知らないままで済ませています。すでに自己完結してしまっていないでしょうか。そうであってはならないと思います。もっと知らなければならいことはたくさんあるでしょうし、もっと考えなければならないこともたくさんあるはずです。まだまだ、物事の真相を見極めてはいません。言うなれば、目にうろこがついたままでいるのだと思うのです。自分の目にあるうろこに気がつかないでいるのかもしれません。
イエス様は、目が見えなかった人が見えるようになった時、その人に「あなたは、もうその人を見ている」と宣言されました。それはイエス様ご自身をみることでした。
私たちがこの世界で本当に見るべきもの、それはあらゆるものの中にイエス・キリストの姿を見て取ることです。具体的には、復活されたキリスト、すなわち神の命の躍動を見て取ることです。イエス様の御心をいつも求める心を失わないように、得た教養を豊かに用いて豊かな人生を送りましょう。