大斎節第3主日礼拝説教(2017年3月19日)

主イエスは私たちの渇きを満たしてくださる

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネによる福音書 4:24)

私たちは人生の中で様々の「渇き」を覚えながら生きていると思います。喉が渇いたら水を求め、人間的に渇きを覚えたら、その渇きを癒してくれる友を求めます。
聖書は、心の奥にある渇きを真に癒すお方を指し示しています。ですから、私たちは聖書を通して語られる主の御言葉によって養われ、励まされることを欲しているのではないでしょうか。主の福音が生き生きと私たちの心に響き染み渡るとき私たちの渇きは潤されるのだと思います。今日の福音書は、まさに渇いている女性、サマリヤの女と主イエスの出会いの物語です。この物語において一体何が起きたのでしょうか。
主イエスは、旅に疲れ、ヤコブの井戸の側で休んでいました。誰か水をくれる人はいないか主は待っておられました。というのも井戸は深く、水をくむ器がないと井戸の水は飲めなかったのです。真昼の炎天下、この時間に水を汲みにくる者などいない。待っても無駄だ。しかし、主は無駄と思える状況の中でなお待っておられました。
しばらくすると、一人のサマリヤの女が人目を避けて水を汲みにやって来ました。彼女は大きな悩みを抱えていました。ある理由から誰にも会いたくありませんでした。彼女は一日の生活の中で一番つらい時間に、誰にも会わないであろう時間に水を汲み、そこで主イエスに出会いました。主はいきなりこの女性の心の痛みに目を向けて問われました。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)
彼女は今まで5人も夫を代えていました。ユダヤ人の間では3回までの結婚は認められ、サマリヤの女の生きる社会的環境では5回まで認められていたようです。しかし、6回目はもう認められません。彼女は社会が認めない生活をしていました。6番目の男性とは同棲しており、それ故に、彼女は人々の冷たい視線の中で生きなくてはならなかったのです。
この女性は人から裏切られ、奪われる生活を重ねながら、人間不信の生活になっていたのではないでしょうか。その心の渇きの癒しを求めて結婚を繰り返してきました。しかし、心が満たされる事はありませんでした。
そのような彼女が歩んできた人生を受け止めた主は、次にある行動にでました。それは彼女を礼拝へと導いたのです。礼拝は真に癒しが与えられる場、サマリヤの女の心の深くにある渇き、その渇きが癒される場であります。そこに主は彼女を導いていかれました。
当時、神への礼拝は神殿で行われていました。神殿に神がいてくださると信じていたからだと思います。しかし、救い主、メシヤが来てくださるとき、どこででも礼拝をささげる事が出来、この礼拝において神の命が注がれるのです。この救い主について、主イエスは「それはわたしである」と非常に強い言葉で宣言されています。
主イエスご目身が救い主であり、神の命であり、永遠に渇く事のない命の水を与える事がお出来になるお方です。この救い主イエス・キリストに、どこの国の、どこの町でも出会い、礼拝をささげる事が出来ると語られています。
サマリヤの女の渇きはこの礼拝においてこそ癒されます。主と出会い、決して乾くことのない主イエスの命の言葉によって彼女はこれまでの事を心から悔い改め、そして渇きが潤され、再び生きる力が与えられたのではないでしょうか。
主は「御言葉は必ず成就する」と言われているように、主の御言葉には人を生かす力があります。私たちも御言葉によって励まされ、勇気付けられたことがあるのではないでしょうか。私たちの身体には生きていくために水が必要です。私たちには水がないと生きていけないのです。口から飲む水はもちろん必要ですが、それだけでは私たちは生きられません。心も渇くのです。その渇きを潤すために私たちは様々な事をします。サマリヤの女も同様でした。しかし、私たちの渇きを癒すのは主イエス様なのです。本当にそうだと思います。振り返ってもこれからの信仰生活においてもそうであると思います。そして、主がサマリヤの女を礼拝に導いてくださったように、わたしたちも礼拝によって渇きが癒される豊かな生き生きとした礼拝を捧げて参りましょう。礼拝が生き生きと行われるとき、教会は活力を得て、私たちも生き生きとした日々を過ごすことが出来ると思います